2009年06月29日 (月)
![]() | 脳は眼から鍛えなさい! (2009/01/05) 内藤 貴雄 商品詳細を見る |
28日の日曜日には、この本を買って読んだ。
眼も脳も同時に鍛えることができるトレーニング方法が書いてある。
眼も脳もグングン活性化するのだそうだ。
今日も皆さんにとっていい一日になりますように。
2009年06月25日 (木)
「こころのかけはし」という、沖縄の大国ミロク大社を拠点に人生を懸けて平和の祈りを捧げる比嘉良丸・里佳夫妻からの祈りの輪を呼びかけるブログがあります。
これを見ると、穏やかな気持ちになります。
いい、一日になりますように。
〜朝の祈り〜
今日と言いう日が、皆様1人1人にとって
良き一日でありますように
今日一日、家や出先・学校・職場など如何なる場所に置いて
事故や事件・災害などの災い巻き込まれる事なく
また、人と人の心に不調和が生まれ
対立や争い・いじめ・虐待などが起き巻き込まれることなく
今日一日、無難で、人と人の心に調和のとれた日でありますように
日々の、暮らし生活の中で、心身に病に見舞われえることなく
如何なる、心身の病を自ら克復し、心清らかに豊かに
幸せ中で喜びに満ち溢れ、生きる喜び・生きる力にとなり
その力が、世の中を変え・未来を変え
良き世の中・良き未来を創ることができますように
私たち、1人1人が人として人間として生きる意味に気付いて
私たち、1人1人の暮らしの中に、日々の生活の中に
愛・幸せ・喜び・豊かさ・平和があること知り感じることで日々の生活暮らしをあゆむなか
1人1人が、神の心を知る、自然のありがたみを心で感じ
祖先の思いを心で受け止め、人の心の大事さを知り
1人1人が良き世の中、良き未来つくりてとして
次の世代への導きてとなるよう、心より願い祈りいたします
心の平穏、平安、安定、平和と世の中の平穏、平安、安定、平和になりますように、願い祈りいたします。
本日の祈り合わせのお力添え、よろしくお願いします
こころのかけはし 祈りの和が広がりますように。
比嘉良丸、りか
これを見ると、穏やかな気持ちになります。
いい、一日になりますように。
〜朝の祈り〜
今日と言いう日が、皆様1人1人にとって
良き一日でありますように
今日一日、家や出先・学校・職場など如何なる場所に置いて
事故や事件・災害などの災い巻き込まれる事なく
また、人と人の心に不調和が生まれ
対立や争い・いじめ・虐待などが起き巻き込まれることなく
今日一日、無難で、人と人の心に調和のとれた日でありますように
日々の、暮らし生活の中で、心身に病に見舞われえることなく
如何なる、心身の病を自ら克復し、心清らかに豊かに
幸せ中で喜びに満ち溢れ、生きる喜び・生きる力にとなり
その力が、世の中を変え・未来を変え
良き世の中・良き未来を創ることができますように
私たち、1人1人が人として人間として生きる意味に気付いて
私たち、1人1人の暮らしの中に、日々の生活の中に
愛・幸せ・喜び・豊かさ・平和があること知り感じることで日々の生活暮らしをあゆむなか
1人1人が、神の心を知る、自然のありがたみを心で感じ
祖先の思いを心で受け止め、人の心の大事さを知り
1人1人が良き世の中、良き未来つくりてとして
次の世代への導きてとなるよう、心より願い祈りいたします
心の平穏、平安、安定、平和と世の中の平穏、平安、安定、平和になりますように、願い祈りいたします。
本日の祈り合わせのお力添え、よろしくお願いします
こころのかけはし 祈りの和が広がりますように。
比嘉良丸、りか
2009年06月21日 (日)
今日は、夏至であり、父の日であり、冷蔵庫の日であり、さくらんぼの日だ。
そんな、盛りだくさんの雨の日、マンションの総会があった。
大きなテーマであった、大規模修繕の提案を行い、承認されたので、ほっと一息といったところだ。
実際は、机上の話がまとまっただけで、これからが本番。
工事の見積もり、契約、着工、竣工と、初めて体験することの連続だと思う。
こんな時期にマンションの理事をすることになるとは、運が良いのか悪いのか、
こうなったら、ラッキーだと思うことにする。
誰にお礼を言ったら良いのか判らないけど、
ありがとうございます。
そんな、盛りだくさんの雨の日、マンションの総会があった。
大きなテーマであった、大規模修繕の提案を行い、承認されたので、ほっと一息といったところだ。
実際は、机上の話がまとまっただけで、これからが本番。
工事の見積もり、契約、着工、竣工と、初めて体験することの連続だと思う。
こんな時期にマンションの理事をすることになるとは、運が良いのか悪いのか、
こうなったら、ラッキーだと思うことにする。
誰にお礼を言ったら良いのか判らないけど、
ありがとうございます。
2009年06月21日 (日)
今日は、この記事を読んでジーンとしてしまった。
松本サリン事件の被害者が、14年間意識が戻ることなく旅立ったのだそうです。
あの頃、マスコミは大々的に報道し、私も興味本位に見ていました。
加害者として疑われた人が実は被害者だったわけです。
私は、軽率にも人を疑ってしまったことを、深く深く反省しなければならないと思いました。
それにして、こんなに理不尽な扱いをうけても、人生を終えるときに、
「あー、面白かった」と。
言えるとは。
以下、河野義行さんが共同通信に寄せた手記全文は次の通り。
事件からまもなく15年を迎える。私の中では昨年、妻が事件発生と同時に心肺停止し、14年間意識が戻ることなく旅立っていったことで、松本サリン事件は終わりを告げた。
この15年間、理不尽な体験を踏まえ、犯罪被害者救済の不備を法廷や講演会で訴え、冤罪被害者の支援を重ねるなど様々な社会問題に関わってきた。その事により、被害者支援の必要性が認識されたり、冤罪被害者の無実が証明されたりするきっかけを作る事ができたと思う。
そうした中で、最も重要な課題があった。妻の回復であった。時間の許す限り意識の戻らない妻のもとに通い、励まし続けてきたが、医師からはいつ心臓が止まっても不思議ではない状況であることを何度となく聞かされていた。難しい状況であるだけに、14年の間、大きな不安が私を捉えていたことも事実だ。私のいないところで、妻がひっそり息を引き取ることへの不安だった。妻をひとりで旅立たせることだけはしたくなかった。
そして、遂に回復の道が絶たれたその時から、全てを妻に向けた。
昨年6月19日、介護施設から緊急入院した妻の余命が90日以内であることを医師から告げられた。漠然と考えていた妻の死に対して、現実対応を余儀なくされたのだ。それまで、「元気になったら旅行に行って温泉に入ろうね」と、常に前向きな話を続けてきたが、この宣告以後は「子供達はそれぞれ自立している。親の責任は充分果たしたよな」と、妻が安心して逝けるよう話題を変えていった。
そして、私は妻の病状をマスコミに公表した。以前から、妻の葬儀は家族だけで行いたいと考えていた。大勢の弔問者の前では家族の気持ちが弔問者に向かざるを得なくなってしまうからだ。妻に会いたい人は、妻が生きている間に会って欲しかったからだ。妻の余命が少ないことが報道されて見舞いに訪れてくださった方の中に、松本サリン事件の担当刑事の顔があった。花のアレンジメントを妻のベッドに飾り、「もっと早くお見舞いに来たかったが、敷居が高かった。澄子さんごめんなさい」と語りかけてくれた。彼の肩の荷がおりたように思えた。
宣告から半分が過ぎた8月4日、松本市内の病院に2回見舞った。妻は、血色のよい顔をして呼吸も穏やかで、本当にあと45日しか生きられないのかと思うほど安定した状態だった。その夜、なかなか寝付けずにいた5日の午前2時45分、病院から電話が入った。「奥さんの様子がおかしいからすぐに来てください」。駐車場のゲートに着いたのは午前3時、玄関に主治医と看護師が待っており、病室に着いたのは3時2分だった。この時、妻は呼吸停止していたが、心臓は動いていた。そして、私の腕の中でわずか2分後、心臓が止まった。妻は待ってくれていた。服装を整え、化粧を施した後、妻の好きだったグレン・グールドのフランス組曲を聴かせた。心なしか妻は微笑んでいるように見えた。不思議なほど悲しみの感情は湧いてこなかった。自分の腕の中で妻を看取ることが出来たこと、それは何よりも大きな妻からの贈り物だったからだ。
この妻の死を知らせる前に、長男がすでに夜行電車にて松本に向かっていたことも不思議であった。科学的には立証されていないが、妻はテレパシーで自分の死の予告を伝えたと考えなければ説明のつかない出来事だった。
さらに奇しくもこの期間は講演の予定のないスケジュールが空白の時だった。
家に戻り妻を迎える準備を進めた。妻逝去の情報を伝える原稿を書き、松本市役所にある記者クラブに届けた。「3日間だけ家族の時間を下さい」と、取材を辞退したい旨を伝えた。これまで多くの人たちに支えられて、感謝の念は尽きないが、このときだけは妻にしてやれることは全て自分でしたい−、そんな思いで死亡診断書、埋葬許可書、宮司さんへの葬儀依頼、葬儀社の手配等全て一人で行った。6日の火葬から、7日の葬儀、12日の7日祭、9月23日の50日祭まで、神道儀式に沿って私達のやり方で妻を送ることが出来た。この間、毎日いただいた花を手入れし、花を買い足し、時には山草を摘み、遺影の前に花をいっぱい飾り、絶やすことはなかった。妻が神の世界に旅立つまでの50日間、自宅を空けることなく存分に妻により添うことが出来た。自分にとって妻との出会いからこの時までを振り返る時であり、楽しい日々が去来する中で、「面白かったね」と語り合えた今生最後の時間だった。
妻は光の中へ旅立っていった。そして、私の中での事件は、昇華した。
妻の死後、家族は新しい人生に向かって歩き始めた。長男は母を安心させようと昨年結婚、勤めていた会社を辞め、今年から実家に戻り暮らし始めた。長女は今年の11月に結婚が決まっている。次女はバンコクで多忙な日々を送っているようだ。こんな子供たちを妻はやさしく見守っていることだろう。私は、親子の関係では普段はそっけないぐらいの関係がちょうどいいと思っている。お互いが干渉することなく自由に自分の価値観で楽しく生きる。楽しく生きることで周りの人たちを幸せにしていく。子供たちにはそんな家庭を築いてほしいものだ。
当時44歳だった私も来年2月で還暦を迎え、人生のリセットの時期に入る。事件に巻き込まれた当初、毎日毎日無言電話や嫌がらせ電話に悩まされた。ある日、それらの電話が一度も入らない日があった。この時、普通の生活がどんなに穏やかで幸せなのかを知った。確かに平凡な生活が幸せであることを松本サリン事件で学んだ。だが、生きている限り、自分の環境を変えて、色々なことにチャレンジする人生も悪くない。そして、人生を終えるときの言葉は用意できている。
「あー、面白かった」と。(原文のまま)
2009/06/21 02:02 【共同通信】
松本サリン事件の被害者が、14年間意識が戻ることなく旅立ったのだそうです。
あの頃、マスコミは大々的に報道し、私も興味本位に見ていました。
加害者として疑われた人が実は被害者だったわけです。
私は、軽率にも人を疑ってしまったことを、深く深く反省しなければならないと思いました。
それにして、こんなに理不尽な扱いをうけても、人生を終えるときに、
「あー、面白かった」と。
言えるとは。
以下、河野義行さんが共同通信に寄せた手記全文は次の通り。
事件からまもなく15年を迎える。私の中では昨年、妻が事件発生と同時に心肺停止し、14年間意識が戻ることなく旅立っていったことで、松本サリン事件は終わりを告げた。
この15年間、理不尽な体験を踏まえ、犯罪被害者救済の不備を法廷や講演会で訴え、冤罪被害者の支援を重ねるなど様々な社会問題に関わってきた。その事により、被害者支援の必要性が認識されたり、冤罪被害者の無実が証明されたりするきっかけを作る事ができたと思う。
そうした中で、最も重要な課題があった。妻の回復であった。時間の許す限り意識の戻らない妻のもとに通い、励まし続けてきたが、医師からはいつ心臓が止まっても不思議ではない状況であることを何度となく聞かされていた。難しい状況であるだけに、14年の間、大きな不安が私を捉えていたことも事実だ。私のいないところで、妻がひっそり息を引き取ることへの不安だった。妻をひとりで旅立たせることだけはしたくなかった。
そして、遂に回復の道が絶たれたその時から、全てを妻に向けた。
昨年6月19日、介護施設から緊急入院した妻の余命が90日以内であることを医師から告げられた。漠然と考えていた妻の死に対して、現実対応を余儀なくされたのだ。それまで、「元気になったら旅行に行って温泉に入ろうね」と、常に前向きな話を続けてきたが、この宣告以後は「子供達はそれぞれ自立している。親の責任は充分果たしたよな」と、妻が安心して逝けるよう話題を変えていった。
そして、私は妻の病状をマスコミに公表した。以前から、妻の葬儀は家族だけで行いたいと考えていた。大勢の弔問者の前では家族の気持ちが弔問者に向かざるを得なくなってしまうからだ。妻に会いたい人は、妻が生きている間に会って欲しかったからだ。妻の余命が少ないことが報道されて見舞いに訪れてくださった方の中に、松本サリン事件の担当刑事の顔があった。花のアレンジメントを妻のベッドに飾り、「もっと早くお見舞いに来たかったが、敷居が高かった。澄子さんごめんなさい」と語りかけてくれた。彼の肩の荷がおりたように思えた。
宣告から半分が過ぎた8月4日、松本市内の病院に2回見舞った。妻は、血色のよい顔をして呼吸も穏やかで、本当にあと45日しか生きられないのかと思うほど安定した状態だった。その夜、なかなか寝付けずにいた5日の午前2時45分、病院から電話が入った。「奥さんの様子がおかしいからすぐに来てください」。駐車場のゲートに着いたのは午前3時、玄関に主治医と看護師が待っており、病室に着いたのは3時2分だった。この時、妻は呼吸停止していたが、心臓は動いていた。そして、私の腕の中でわずか2分後、心臓が止まった。妻は待ってくれていた。服装を整え、化粧を施した後、妻の好きだったグレン・グールドのフランス組曲を聴かせた。心なしか妻は微笑んでいるように見えた。不思議なほど悲しみの感情は湧いてこなかった。自分の腕の中で妻を看取ることが出来たこと、それは何よりも大きな妻からの贈り物だったからだ。
この妻の死を知らせる前に、長男がすでに夜行電車にて松本に向かっていたことも不思議であった。科学的には立証されていないが、妻はテレパシーで自分の死の予告を伝えたと考えなければ説明のつかない出来事だった。
さらに奇しくもこの期間は講演の予定のないスケジュールが空白の時だった。
家に戻り妻を迎える準備を進めた。妻逝去の情報を伝える原稿を書き、松本市役所にある記者クラブに届けた。「3日間だけ家族の時間を下さい」と、取材を辞退したい旨を伝えた。これまで多くの人たちに支えられて、感謝の念は尽きないが、このときだけは妻にしてやれることは全て自分でしたい−、そんな思いで死亡診断書、埋葬許可書、宮司さんへの葬儀依頼、葬儀社の手配等全て一人で行った。6日の火葬から、7日の葬儀、12日の7日祭、9月23日の50日祭まで、神道儀式に沿って私達のやり方で妻を送ることが出来た。この間、毎日いただいた花を手入れし、花を買い足し、時には山草を摘み、遺影の前に花をいっぱい飾り、絶やすことはなかった。妻が神の世界に旅立つまでの50日間、自宅を空けることなく存分に妻により添うことが出来た。自分にとって妻との出会いからこの時までを振り返る時であり、楽しい日々が去来する中で、「面白かったね」と語り合えた今生最後の時間だった。
妻は光の中へ旅立っていった。そして、私の中での事件は、昇華した。
妻の死後、家族は新しい人生に向かって歩き始めた。長男は母を安心させようと昨年結婚、勤めていた会社を辞め、今年から実家に戻り暮らし始めた。長女は今年の11月に結婚が決まっている。次女はバンコクで多忙な日々を送っているようだ。こんな子供たちを妻はやさしく見守っていることだろう。私は、親子の関係では普段はそっけないぐらいの関係がちょうどいいと思っている。お互いが干渉することなく自由に自分の価値観で楽しく生きる。楽しく生きることで周りの人たちを幸せにしていく。子供たちにはそんな家庭を築いてほしいものだ。
当時44歳だった私も来年2月で還暦を迎え、人生のリセットの時期に入る。事件に巻き込まれた当初、毎日毎日無言電話や嫌がらせ電話に悩まされた。ある日、それらの電話が一度も入らない日があった。この時、普通の生活がどんなに穏やかで幸せなのかを知った。確かに平凡な生活が幸せであることを松本サリン事件で学んだ。だが、生きている限り、自分の環境を変えて、色々なことにチャレンジする人生も悪くない。そして、人生を終えるときの言葉は用意できている。
「あー、面白かった」と。(原文のまま)
2009/06/21 02:02 【共同通信】
2009年06月20日 (土)
今朝、ブログを見て、びっくりです。
こんなコメントが書き込まれてたのです。
感謝です!
読んでくださって、ありがとうございます。
いいとこどりして、役立てていただけたら、本望です。
ayao234さんに、すべての良きことが、なだれのごとく起きますように。
このコメントの主は誰でしょうか?
それは、
なんと、
なんと、
この本の著者である、吉永 賢一先生からコメントだったのです。
全国区である先生が書き込みをしてくださるとは、びっくりです。
高速学習メソッドを忘れるなよ、メッセージなのでしょう。
「覚える」「わかる」で知識を確実にインプットする。
高速アウトプットで無意識レベルの知識にする。
これを、もう一度やりなおそうと思います。
吉永先生のブログは、以下をクリック
↓
吉永賢一IS東大家庭教師が教える頭が良くなる勉強法と記憶のコツ
ありがとうございました。
今日も、
5回笑って、
5回感動しよう!
こんなコメントが書き込まれてたのです。
感謝です!
読んでくださって、ありがとうございます。
いいとこどりして、役立てていただけたら、本望です。
ayao234さんに、すべての良きことが、なだれのごとく起きますように。
このコメントの主は誰でしょうか?
それは、
![]() | 東大家庭教師が教える頭が良くなる勉強法 (2008/08) 吉永 賢一 商品詳細を見る |
なんと、
なんと、
この本の著者である、吉永 賢一先生からコメントだったのです。
全国区である先生が書き込みをしてくださるとは、びっくりです。
高速学習メソッドを忘れるなよ、メッセージなのでしょう。
「覚える」「わかる」で知識を確実にインプットする。
高速アウトプットで無意識レベルの知識にする。
これを、もう一度やりなおそうと思います。
吉永先生のブログは、以下をクリック
↓
吉永賢一IS東大家庭教師が教える頭が良くなる勉強法と記憶のコツ
ありがとうございました。
今日も、
5回笑って、
5回感動しよう!










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